海と共に生きる ~ あとがきにかえて

シーカヤック

「海と共に生きる」そう決意したのは34歳の夏だった。会社がバブルで弾けて泡になったぼくは新しい「なにか」を求めて帰る当てのない旅をしていた。といっても漠然とした自分探しの旅ではない。それは10代の終わりに散々やってきた。それに、漠然としたまま行動しても何も見つからないことや、逃げ道がある以上は何も得られないことは経験済みである。そんな尻の青い話しではないのだ。

ぼくが求めた「なにか」とは、人生をかけて取り組むべき仕事。全身全霊をかけて挑む大きな夢である。逆説的に言えば社会や地域が抱える大きな問題や課題を解決すること。それを得るために、それを探すためにぼくは全てを投げうってトランク一丁で旅に出たのだ。弱い自分と決別するため、逃げ道はぜんぶ塞いだ。家財道具はすべて捨てた。帰る家もなかった。あるのは少々のお金と着替えとノートと携帯電話のみ。生きるために必要なモノはそれだけで充分だった。大きなものを掴むために余計な荷物はいらない。それが次なる夢を手に入れるためのぼくなりの儀式だった。いや、それ以上に心は飢えていた。熱望していたのだ大きなフロンティアを。これからの生きる場所を。

そしてついに見つけたんだ。新しい「なにか」を。はじめて旅した瀬戸内海のどまん中で。縁もゆかりもない海の上で・・・。海上を通り抜ける風の中に、かすかな「海の声」を聞いたんだ。それは、はじめて体験する白昼夢のような出来事だった。が、ぼんやりとした中にもなにかとても強いメッセージを感じた。その時、直感的に決めたんだ。海と共に生きていく覚悟を。

フィールド・オブ・ドリームス。この海には、この土地には「きっとなにかある」そのなにかを突き止めてみたいと思った。心の中は「新しいなにか」がはじまる予感にワクワクしていた。そして、理屈や条件などではなく、直感を信じてみたいと思った。それから10年の月日が過ぎ去った今、直感は確信に変わった。わかったんだ。あの時の声の正体が・・・。

「ありがとう」で繋がるフラットな人間関係

海と関わるための手段、そして島で生きてくための糧を得る手段としてはじめたのがガイドだった。といっても、なんの経験もないど素人からのぶっつけ本番。毎日がハラハラドキドキ、冒険のような日々だった。されど、仕事に没頭できることが嬉しく、時間はあっという間に過ぎ去っていった。そして、年を追う毎に200名、400名、800名と倍々でお客さんも増えていき、3年目以降は対応しきれないほどの人気となった。が、嬉しさの反面、こんな仕事をいつまで続けられるんだろうか。といった不安もあった。仕事はハードだし、ケガしたら収入はゼロだし、仕事の絶対量からしても決して割に合う仕事ではない。が、続けるうち、そうした不安はちっぽけなものに思えるようになった。

弱気になった時、助け船を出してくれたのはいつもお客さんだった。「また来るからね」と、帰って行くお客さんたちの笑顔がなにより励みになった。中でも島を自分のふるさとのように思い、毎年遊びに来てくれるリピーターさんたちの存在は大きかった。リピーターさんが増える度にコースも増えていった。時には一緒にコースをつくったこともあった。そんなリピーターさんたちとは、今や家族のような付き合いだ。例えるなら正月にお互いの状況を確認し合うような間柄。喜怒哀楽を分かち合える良き理解者であり、相談相手でもあり、最大の支援者でもある。なので、再会した時の挨拶は「いらっしゃい」ではなく「おかえり」帰るときは「ありがとう」ではなく「いってらっしゃい」。こうした関係が築かれていくと、もはや、やめたくてもやめられなくない・・・。

もちろん全てのお客様とそうした関係を築くことはできないし、代金を支払った対価としてサービスを受け取る。といった「テイク」(利害)だけを求める人が多いのも事実だ。しかし、少数ではあるが、仲良しになったリピーターさんたちの多くは「テイク」ではなく「ギブ」の関係。求めるだけ、利用するだけの関係ではなく、互いに支援し合う関係だ。そして、お互いが支援し合うことで、そこに「感謝」が生まれ「ありがとう」で繋がる人間関係が築かれていく。

一生懸命都会で働いている人たちがいて、時々息抜きをする田舎があり、受け皿となるぼくたちの仕事がある。こうして考えると、もはや都会と田舎にボーダーはなく、上下もない。そこにあるのは、互いに感謝し、喜びを分かち合える心地良いフラットな人間関係があるだけ。そうしたかけがえのない人と人との繋がりを築くことこそが、なにより大切なことだと思うようになった。思えば、それこそが求めていたものの一つでもあった。

お客さん
島と島を船が繋ぎ、人と自然、人と人をカヤックが繋ぐ。島は舟を寄せる「縁」(ふち)であり、拠り所となる「縁」(よすが)でもある。海と島とカヤックが繋ぐ「縁」(えん)に感謝。

賞味期限

また、カヤックなんて簡単だ。そう思った矢先、高波にもまれてあわや天国。なんてことも何度かあった。必死で岸に辿り付いた時には、もはや立ち上がることも出来ないほどの放心状態だ。が、そうした経験を重ねるたび、海との距離感は縮まっていった。そして、もっと遠くへいきたい。もっといろんなところを漕いでみたい。夢はどんどん広がっていった。と同時に、もっと謙虚であること。ねばり強く取り組むこと。経験や過信は時に仇になること。などを幾多の苦い経験から学んだ。

そんなこんなで10年を過ぎた今の心境。ここまで来たら情熱が続く限り漕ぎ続けたい。というか情熱が切れた時が「老い」であって、そもそもカヤックに年齢制限なんてないし、年齢に賞味期限などない。ましてや旅に終わりはない。一生のうちにどれだけのけの景色に出会えるのか。感動に出会えるのか。それを思うとどれだけ時間があっても足りないのである。もとより、肉体は老化し続けるが、魂は進化し続ける。だとするなら、漕ぎ続けることがどういう進化を辿るのかを身をもって確かめてみたいと思うようになった。

というか、海や自然のライフサイクルからしてみれば、10年なんて歳月はちっぽけなものなのだ。漁師にしかり、百姓にしかり、自然を相手にする仕事というものは、そもそも30年続けてようやく一丁前の世界である「百を知る」から百姓なのである。実際、島には各方面に「匠」と呼べるその道のプロがいらっしゃるが、共通点は皆一様に30年選手であり、匠が繰り出す芸術的とも言える「奥義」は30年に渡る失敗と試行錯誤と改善の繰り返しによって導き出される、天文学的な理論の集積なのである。「十年一昔」なんて言葉があるが、社会のモノサシでは計りきれない世界があるのだ。それをぼくも学びたいと思うようになった。

なんてことを考えながら海に浮かんでいる時、ふと感じることがある。命の儚さを。何億年も前から変わらない時を刻む壮大な時間軸の中に身をゆだねている時、海は人間の生命の短さをそっと教えてくれる。「命が有限である」という感覚を持つことはとても大切なことだと思う。時として人間にとてつもない力を与えてくれるからだ。何の因果か35歳でガイドをはじめて今年で45歳。仮に75歳まで生きたとしても残り30年。果たして30年でなにができるのか。未来に生きる子どもたちに何が残してあがられるだろうか。最近はそんなことも考えるようになった。

パンドラの箱

「海と共に生きる」そう決意し島に暮らしはじめ、そして、10年に渡り海を漕ぎ続けて来た中で見えて来たもの。目を閉じた時にぼんやりと映し出される心象風景。それは、希望と呼ぶにはあまりにほど遠い心憂い風景だった。海を知るほど楽しさが増す一方、心の中は次第に耐えがたい焦燥感や絶望感に侵されていった。まるで「パンドラの箱」を開けてしまったかのように・・・。

年々影が薄くなる海の生きものたち。瀬戸内海はもはや瀕死の状況にあった。目に見える風景は美しく見えても、目に見えない海の中は生きものたちが暮らしていけない砂漠化が進んでいた。陸と海の境界線である干潟や渚(砂浜)は海の浄化装置でもあり、生きものたちの産卵場所でもありエサ場でもある生活の場。ゆえに「命のゆりかご」と称されて来た場所だ。しかし、沿岸部の大半は既にコンクリートに置換され、現存する自然の砂浜は残すところ2割しかないのである。砂浜が消えれば藻場が消え、藻場が消えれば魚が消える。文明がつくり出す連鎖の崩壊により、生きものたちの暮らしの場が失われている現実をずいぶんと目にしてきた。

かつて瀬戸内海は単一面積当たり世界一の水揚げ量を誇る豊穣の海だった。たかだか40年前までは。しかし、その海から魚が消えつつある。最盛期と比べると漁獲高は実に7割以上も減っている。平行して漁師も減っている。今のペースだと、統計データ的には20年後には瀬戸内はおろか、日本中の漁師がいなくなる計算だ。果たして、ぼくたちは魚のいない海に、そしてこの島にいつまで暮らしていくことができるのだろうか。未来に生きる子どもたちはこの現実をどう受け止めるのだろうか。そうした切なる憂いが、パドルを通じて海から手へ、そして心の奥深いところへと流れ込んでいった。

でも、決して結論が出たわけではない。絶望の中にも希望はある。もうダメなのか。悶々とした日々を送る中で、ぼくはついに希望の光りを見つけたのだ。小豆島から15kmほど北に向かった岡山県の「日生」(ひなせ)という小さな漁師町。そこで目にした光景は、目を疑うばかりの信じがたいものだった。無数に泳ぐスナメリ(イルカ)の群。どうしたことかと海の中をのぞいてみると、そこにはこれまで見たことのない「アマモの森」が広がっていた。海の中が海草でモジャモジャなのだ。いつしか本で読んだ「里海」の風景がそこにはあった。海草が魚を育て、その魚を求めてたくさんのスナメリたちが集まっていたのだ。死んしまったはずの海が再生している・・・。

SATOUMI

聞けば、漁師たちがコツコツと海に種を蒔き、苗を植えて来たと言う。まるで農家の人たちが田に苗を植えるように・・・。以下はその概要だ。

爆発的な工業化が進んだ昭和の時代。右肩上がりの経済成長に背を向けるかのごとく、漁獲高は年々下降線を辿り、終いにはちっとも魚が捕れなくなってしまった。異変を感じて海の中を調べた時には590ヘクタールほどあったはずの藻場は12ヘクタールまで減っていた。毎日海に出ている漁師でさえ、壊滅状況になるまで気が付かなかった。危機感を感じた一人の漁師が海に種を蒔きはじめた。来る日も来る日も種を蒔き続けた。が、一向に結果は出ない。砂漠に種を蒔くようなもの。そんなことしたって無駄だ。誰もがそう思った。それでも漁師は諦めず種を蒔き続けた。ようやく根付いた。と思った瞬間、台風が来て台無しに。そんなことの繰り返し。時が経ち、仲間が集まり、みんなで種を蒔きはじめた。と、臨界点を超えたかのように藻場は一気に広がりはじめた。

救世主は足元に転がってる石ころ同然の「牡蛎」だった。貝たちは昔から海のクリーナーと呼ばれてきた。海水を吸い込み栄養を濾し取る過程で水を浄化するのである。正に天然の濾過フィルターだ。調べてみると牡蛎の浄化能力が高いことが解った。一匹の牡蛎が浄化する水量はなんと一日300リットル。ドラム缶1.5本分に相当する。しかし、元来、牡蛎は干満のある磯場の岩や岩礁にくっついて生息しているが、沿岸部の大半は護岸や埋め立てが進み牡蛎は激減していた。当然ながら牡蛎を育てる場所はなかった。苦肉の策として海にぶら下げることにした。こうして牡蛎筏が誕生した。

次第に海の透明度が上がりはじめた。透明度が上がると太陽の光りが海底深くまで届くようになる。と、直物たちの生息域が一気に広がりはじめた。植物たちは酸素を供給することで海の砂漠化(低酸素化)を防ぐと共に、海底に堆積したチッソやリン酸、カリなどを吸収することで海の富栄養化(赤潮)を食い止める。貝と植物たちの素晴らしき連携プレー。この浄化システムが藻場を育て、生きものたちの「ゆりかご」となることで多様な生態系を育む土台が誕生する。地道な作業と試行錯誤の繰り返しにより、消えかけていた藻場は200ヘクタールまで復元。実に1/3の藻場が蘇った。いなくなっていた魚たちが次々に戻って来た。伝統的なつぼ網漁も復活し、おまけに牡蛎が街一番の特産品になった。こうして暮らしはかつての豊さを取り戻しはじめた。その間、実に30年・・・。

その後、行動を共にしてきた九州大学や京都大学をはじめとする連携チームにより調査研究が進み、一つの論文が完成した。「人の手を加えることで生物多様性を育む循環システム」は ”SATOUMI” と名付けれた。ところが、この論文は世界の科学者たちに物議を醸した。失われた自然環境を取り戻すためには人間を排除しなければならない。人間の手で自然を蘇らせることなど不可能。それが世界の常識だったからだ。しかし、今やこの常識は過去のものになった。実証に基づくデータが科学者たちの常識を凌駕したのだ。そして、瀬戸内海発の海を守る思想と科学 ”SATOUMI” は世界の標準語となり、疲弊した世界の海を救う大きな一手になりつつある。

ぼくが目にした衝撃的な海は、先人たちから脈々と受け継いで来た海洋民族としての遺伝子と、日本の海洋生物学者たちの頭脳が結集した世界最先端の海だったのである。

海と共に生きる

「人間の手で海を再生できるんだ!」そのことがぼくにとってはなによりの衝撃だった。海を壊したのも人間なら、海を元に戻すことができるのも人間。人間てやっぱり凄い。信じる力って凄い。そして、諦めず、怯まず、前だけを向いて歩み続けてきた漁師たちの背中があまりにかっこいい。希望という涙がこぼれ落ちた瞬間でもあった。

漁師たちはこう言う。海を信じること。そして努力を惜しまず根気よく手を加え続ければ、自然は必ず恵を返してくれる。だから、命がけで海と向き合うこと。それが「海と共に生きる」ということなんじゃないのかな。そして、海を育てた代わりに少しだけおこぼれをいただく。それが海に生きるものの仕事だと思うと。

ここで重要なことは、海の再生は官民の連携が必要不可欠であることは前提としても、まずは地域住民による自発的な草の根活動が先にあり、一人一人の意識と啓蒙の膨らみがあり、それらを支える産官学の連携があってはじめて達成可能になるということ。言い換えるなら、行政が市民に働きかけるトップダウン方式の「行政主導」や「市民参加」ではなく、市民が行政を巻き込むボトムアップ方式の「市民主導」あるいは「行政参加」でなければ持続可能な発展は望めないということ。同時にそれらをシナプスのように繋ぐ人や、伝える人たちの存在があってはじめてビジョンは動き出すのだということ。

つまり、海の再生も含めて、最終的に地域を良くするのは、そこに暮らす住民の意識であり「自分たちの街は自分たちがつくる」という「市民公益」の思想であり、プライドである。その上で、元々の自然環境や生物多様性をどれだけ取りもどすかが、次なる時代における豊かさの新基軸になるのである。より良い22世紀にするための取り組み、そして暮らしは既にはじまっているのだ。

ゼロを100にすることは難しいけれど、ゼロを1にすることならできる。まずは自分から。
それが、日生の海で受け取ったメッセージであり、10年目にして辿り付いた一つの解である。

人生も残すところ30年余り。その30年をぼくは目の前の海に捧げていく所存。希望がある限り。
なにはともあれ、カヤックが繋いでくれた希望に感謝。

日生

牡蛎筏が浮かぶ里海の風景。

母なる海は全ての命を内包する生命の源。海の植物たちと太陽が出会って酸素(O2)が生まれ、酸素が海水に溶け込んだ水素(H)と出会って水(H20)が生まれる。水は太陽と出会って水蒸気となり、やがて雲となり雨となって大地に降り注ぐ。その水がやがて川となり大地を潤し、多様な命を育みながら海へと帰る。

川は大地が育んだミネラルと海へと運ぶ。ミネラルを受け取った直物たちはお返しに酸素を供給する。酸素を頂いた貝たちはお返しに水を浄化する。透明度が上がり光りが届く範囲が広がると植物たちの生息域が広がる。植物たちが増えた分だけ魚たちも増える。そうなれば遠くまで行かなくても漁ができるようになる。燃料代もかからなくなり、暮らしは豊かさを増す。海、山、川、全てが混ざり合い、バランスを保つことで育まれる大いなる命の循環。それが「里海」の思想。豊かな環境を取り戻すこと。これこそが次の時代を行く抜く切り札であり希望だ。

「海」という文字は「水」と「人」と「母」でできている。水が循環することで命が循環する持続可能な生命維持装置のこと。文句も言わずせっせせっせと恵を与えてくれる物言わぬ母さんに対して、今に生きるぼくたちはどんな恩返しがしてあげられるだろうか。

環境教育

一昨年、ぼくが師匠と呼んでいた豊島(てしま)のじいちゃんが彼岸の旅へ出た。じいちゃんはこれといった肩書きもない農夫であったが、みんなのヒーローだった。慈愛に満ちた言葉、行動、全てが本物だった。晩年、じいちゃんはこう言っていた。

『なくしてしまったものは仕方がない。しかし、これ以上自然を傷つけてはいけない。そして、今ある自然をできる限り残していくこと。残す努力をすること。それが今に生きる我々の責任であり努めだ。幾らかでも残っていれば考える余地がある。それをどうするかは後世に生きる人たちが考えたらええ。でも、残っていなければどうすることもできん。だから、残していくこと、希望を繋いでいくことが大事や。そのために一番大事なことは教育や。人を育てることが希望であり財産や。』

じいちゃんが暮らす豊島は文字通りの「豊かな島」である。水資源に乏しい瀬戸内の島の中では数少ない稲作が行える島であり、山中から湧き出る豊富な水が暮らしを潤し命を繋いできた。しかし、心ない人たちが都市から持ち込んだ行き場のないゴミにより、豊かな島はいつしか「ゴミの島」と呼ばれるようになった。海と島は高濃度のダイオキシンで汚染されていた。いわゆる「豊島事件」過去最大級の産業廃棄物の不法投棄事件だ。踏みにじられたプライドを取り戻すための闘いは30年に渡り続いた。じいちゃんはその最前線で闘って来た人だった。出口の見えない草の根活動の傍ら、農業と新聞配達を続け、5人の子を育て上げた。晩年は癌が発症し余命半年と宣告されながらも、脅威の回復力で2年も生き延び、「ついてるついてる、しぶとく生きてる」と、最後まで笑いを絶やすことなく希望を繋いで死んで行った。「教育こそが希望」それがじいちゃんのラストメッセージだった。

戦後の食糧難から生きるために必死で働き、そして現代に至る豊かさの礎を築き上げてきた現役世代の功績は賞賛すべき偉大なものだ。しかし同時に、繁栄の下敷きとなり消えてしまった自然。失ってしまったものの代償はあまりに大きい。数万年をかけて自然の営みが創り出した創造物を取り戻すことなどもはや不可能だ。神様であろうとどんなテクノロジーを駆使しようと失われた自然を取り戻すことはできない。

誰の責任か。これが先進国の姿なのかと愕然たる思いに駆られることもある。しかし、科学的な原因を追及することは必要だとしても、決して誰かのせいにすることはできない。全ては豊かさを享受してきた国民全員の責任であり、失った自然の全ては都市の膨張と共に飲み込まれたのだからだ。悔しいのは、知っていれば防ぐことができたものも、大半は失ってから気が付いたものばかりだということである。つまり、諸悪の根源は、海や自然に対する「無関心の代償」であり「環境教育」をして来なかったことに対するツケなのである。最終的には国民一人一人の「意識」の問題であり、それを裏付ける知識と教養、そして道徳や美しさを見極める審美眼や感性の問題なのだ。総じて、「海からの視点」そして「生きもとしての視点」が今の日本には足りないのである。

ゆえに教育が大切なのだ。まずは知ること。学ぶこと。伝えることからはじめなくてはならない。そして、どうすれば解決できるのかを一人一人が真剣に考え、世論が成熟しない限り、政治は動かず、解決にも至らない。そしてなにより大切なことは、海や自然をもっと「身近な存在」として感じること。例えるなら、恋人や家族と同じくらいの「かけがいのないもの」として感じることが重要だ。痛みを感じる心や感性が育たない限り、根本的な問題が解決したことにはならない。

センス オブ ワンダー

そのために大切なのは、実体験として自然を感じること。五感を使って体験しない限り「自然に対する好奇心や興味」は芽生えないからだ。テレビでクジラを見るのと、カヌーに乗って野生のクジラを間近に見るのとでは天と地の差がある。テレビで見た映像は忘れても、自分の目で見た映像は一生忘れることはない。つまり、自然の中で遊ぶことそのものが生きた環境教育なのである。

と同時に、心や感性が育たないことには新たな科学技術の芽も生まれない。ある偉大な発明家はこう言った。「発明とは、最初に閃きや直感があり、それを人に説明するのに3年かかり、実証するのに10年かかる行動のこと」だと。つまり、好奇心や感性を育てることが新たなサイエンスの扉を開く鍵であり、次の時代を創造するための種であり出発点なのである。

その一端、よりよい社会を育むための「感性」という目に見えない種を蒔くのがガイドの仕事であり役割である。無論カヤックなんてものは社会の尺度からは遠く離れた、なんの役にも立たない非生産的な乗り物の極みでもある。されど、役立たずのカヤックにしかできないこともある。漕ぐこと、人力で海を渡る経験は、記憶の断片として人の心に残り続ける。そして、そこに起こる小さな波紋が、やがて社会に大きなうねりをもたらす大きなインパクトになるやもしれない。もしくはそうなることを願いつつ漕ぎ続けること。海を伝え続けることがガイドが果たすべき最も重要な責務である。

最後に、環境教育の祖でありバイブルとも言われた、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」の一節を紹介して終わりにしよう。この本の中でレイチェルが伝えたかったものは、すべての子どもが生まれながらに持っている「センス・オブ・ワンダー」、つまり「神秘さや不思議さに目を見はる感性」をいつまでも失わないでほしいという願いだった。

「そのために必要なことは、わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、すくなくともひとり、そばにいること。」

まずは、海を漕ぐことからはじめてみたい。

シーカヤック