ガイド業の真実
まず最初にガイドで飯が食えるのか? というお題から入りますが、結論から言うと安定したな雇用条件(給与や休日、福利厚生等)を求める人は、百歩譲ったとしても、無理です。厳しい言い方ですが、やっていけるのか、飯が食えるのか、などと心配してる時点で自分に負けているのでアウト!やっていけるかではなく、なにがなんでもやる!絶対にプロになる。そういった強い志や覚悟がないとやれる仕事ではないし、続けることはできないと思います。このことはガイドに限らず、なにかのスペシャリストやプロフェッショナルを目指す人には共通する部分だと思います。全ては自分の才能と努力次第。お金も休みも全ては自分の力で勝ち取るもの。それが「自由」を勝ち取る意味。
では次に、もしも安定した雇用が保証されればガイドになれるのか。これも結論から言えば難しいと思います。ガイドを目指したところで長くは続かない。もちろん仕事が過酷だとか、不定休だとか、続かない理由はいろいろあると思います。しかし、続かない本当の理由は能力や条件等の問題ではなく、「そもそもガイドは目指すものではない」からです。え、どういうこと?と思うかもしれませんが、実のところガイドを続けている人の多くは、「ガイドになろうと思ってなったわけではない」ということなんです。もちろん全てのガイドがそうだとは言い切れませんが、少なからずぼくたちも含めて、ガイドを続けている仲間の多くがそうです。いったいどういうことなんでしょうか。
シーカヤックガイドと言うと、イメージ的に海やアウトドアが好きな人たちがやってる仕事だと思うかもしれません。もちろんそれは間違いではないし、みんな海が大好きです。しかし、海が好きだから。という単純な理由だけで続けることができるでしょうか。もしもそうだとしたら、大自然の驚異を前に、人の命を預かる恐怖に途中で逃げ出したくなると思います。ましてや海への恐怖心はどれだけ経験を積んでも消し去ることのできない大いなるものです。
では、真実はどこにあるのか。答えを言います。「そこに、海があったから・・・。」なんだそれ!と思うかもしれませんが、それが全てのはじまりなんです。そして本当のことを言えば、島で生きて行く上での糧を得る選択肢が他に無かった。他にやりたいことや才能があれば、そっちをやっていたかもしれない。けれどガイドという選択肢しかなかった。自分たちが掲げた目的を達成するための方法。島を知ってもらい、楽しんでもらい、そして島を好きになってもらうための方法。海と関わるための方法。伝えたいメッセージ。これら全てを満たすものが、たまたまカヤックであり、目の前に海があった。だから覚悟を決めて海のガイドをはじめた。それがガイドをはじめた本当の理由です。
つまり、ガイドになりたかったわけでも、ガイドを目指したわけでもなく、先に伝えたいなにかがあって、それを伝えるための手段としてガイドという選択があり、海を伝える手段としてシーカヤックがあった。また、ガイドをはじめた動機やニュアンスの違いこそあれ、生まれ育った郷土やそれを取り巻く自然環境を守り抜こうとする眼差しはガイドに共通するものだと思うし、もう一歩深い部分には、自然を顧みない経済優先の開発に刹那的な公共工事(本来経済とは『経世済民』(世をおさめ、民をすくう)という意味ですが、現代における経済は目的ではなく金を稼ぐ手段としての意味合いが強い)それによって失われゆく景観に自然環境。消えゆく文化や過去との繋がり。そうした様々な危機感や憂いが複雑に絡み合った現代社会に対する強力なアンチテーゼが、魂を突き動かし、海へと駆り立てる原動力になっていることもシーカヤックガイドに共通したスピリッツだと思います。
総じて、ガイドは目指すものではなく、海や地域を伝えるための一つの手段であり、生き方の延長線上にある仕事であり、カヤックもまたそれらの思いを伝えるための手段に過ぎないということ。だから、海を楽しむことができれば、本当はヨットでもSUPでも道具はなんだっていい。流木を拾って筏をつくるでもいいし、板切れがあればとりあえず海にはいけるし遊びになる。ただ、カヤックでしか感じることのできない海との一体感や、陸からでは決して感じることのできない、海の生きものたちと同じ目線から見る「海からの視点」。そうした新たな視点や気づきを与えてくれる奥深さを知ってしまった以上、そして今まで飯を食わせてもらった以上は、育ててもらった恩義があるし愛着もある。だから、カヤックを大切にしていきたいし、使命のようなものも感じている。
そういう意味では、できればやりたくないけど、飯を食うために仕方なくやってる「生業」に近い職業なのかもしれません。先祖代々続く田んぼを耕すように、せっせせっせと海を耕し種を蒔く。そこに海がある以上、関わらずにはおれない。それがガイドの性分なんだとも。
ガイドという生き方
以上こと(仕事と生業)をシーカヤックガイドにあてはめると、糧を得るための手段であるツアーは「生業」。対して、海を守るための活動を行ったり、未知なるものとの出会いや感動を求めて「自らの旅」を続けること。それがガイドにとっての一番大切な「仕事」なんだと思います。そして、旅を通じて得た経験や感動、ワクワクドキドキした心の振動が、やがて音楽のようなリズムとなりシンパシーとなって伝わっていく。そして、その感動が誰かに伝わった時「いい仕事してるね」となり「ありがとう」の言葉に変換されて自分に返ってくる。しかも、お金とセットで・・・。
総じて、挑戦者として「未知なるものへ挑み続けること」それがガイドの生き方であり成すべき仕事であり、存在としての価値でもあると思います。
海の生きものになる
以上いろいろと能書きをたれてきましたが、なにはともあれ一年の半分近くを海で過ごしているガイドにとってのカヤックとは、もはや生活の一部というよりは体の一部のようなもので、「漕ぐ」という行為は、飯を食う、う○こをする、と同じレベルの生理現象みたいなもの。(汚い話しで申し訳ないが)というか、実際カヤックしてないと便秘してるような具合の悪ささえあるし、カヤックした後はすこぶる快便。更に、長距離航海においては、キャンプの翌朝、思わず写真を撮りたくなるような超絶的な「一本○」が出る。しかも3秒で。おまけにキレがいいから紙もいらない。この爽快感というか放出感というか「出し切った感」がまじでヤバイ!というか誰かに伝えたくなるほど感動するというか(モノがモノだけにお見せできないのが残念だけど・・・)しかも、漕げば漕ぐほど疲れるどころかだんだん元気になってくる。こうした一連の爽快感や超越感のようなものを味わってしまうと、もはやカヤックのない生活なんて考えられないし、体力や健康を維持するためにもなくてはならないものになってくる。というか、カヤックをやめると免疫力が一気に低下しそうで怖い!
おまけに、長いこと海にいると、感覚機能が海用に特化されてくるというか、細胞レベルが進化してくるというか、もしくはいらないところが退化してるのかは定かではありませんが、年を追う毎に体が海になじんできて、陸にいる時よりも海にいる時の方が妙に落ちつくというか、自然というか、違和感がないというか、だんだんと「海の生きもの」みたいになってくる。と、海の生きものたちに対するリスペクトなる思いが芽生えてきて、なぜ彼らは陸に上がろうとしなかったのか。なぜ何万キロもの旅をするのか。といった理由がうっすらと見えてきたりもするわけですが、そういうことを考えているうち、魂がどんどんネイティブな方向へ引き込まれて行くというか、ルーツをさかのぼりたくなってくるというか、人類の進化とは違う方向へ向かおうとしている感覚さえもありますが、これ以上書くとヤバイ人だと思われそうなので、ここいらで無理矢理まとめに入りたいと思います。
カヤックとは、なくてもいいけど、ないと困る、「う○こ」のようなもの。
お後がよろしくないですが、この辺で。〆がグダグダで申し訳ない・・・。
う~み~に~おふね~を~うかば~し~て~ いぃって~みたい~な~ よその~く~に~♪