Introduction
西の空が茜色に染まりはじめたころ今日の旅が終わる。美しい渚を見つけたらそこが今日の家である。上陸したら舟が流されないよう潮間帯の上まで引き上げ、夕食の仕度に取りかかる。薪を集め適当な流木を探し食卓をつくる。寄せ集めの板切れを並べただけの食卓であるが、またたく星空と潮騒のBGM付のダイニングである。食卓の準備を終えたら寝床の準備。そして、夜の帳が下りるころ、薪に小さく火を灯す。無人島の闇夜は想像力をかき立てる怖さがあるが、闇に小さな明かりが灯ると、そこに皆の笑顔がほんのりと浮かび上がる。
僕たちが施す明かりは食事と暖を取るだけの1ルクスほどのものであるが、ささやかな火の明かりと月の明かりがあれば、互いの存在を照らすに十分である。ここでは電気もガスもいらない。そして火の側にいれば冬でもセーター一枚で過ごせるほど薪の炎は暖かい。闇夜を彷徨う獣たちが近づいて来ることもない。火は人類最初の発明品でもあり叡智だ。野生動物と違い人間の胃腸は軟弱だ。生ものを食うとすぐに腹をこわす。そこで、苦しみから逃れるために火を発明し、「焼く」という技を編み出し、土器をつくり「煮る」という技を編み出したのだ。火は人類にしか扱うことのできない高度な文明であると同時に、調理器具でもあり暖房器具でもり、闇夜を照らす照明器具でもあり、そして獣たちから身を守る術でもあった。こうして人類は数万年の命を繋いで来たのである。
熾火ができたらゆっくりと時間をかけて食事をいただく。時折パチパチと音を立てて静かに燃える火を囲みながらの食事は、なんとも心地良い贅沢な時間だ。誰も知らない無人の浜に、人の笑い声と潮騒の音が溶け合いながら静かに夜が更けていく。対岸に目を向けると街の光明が眩いばかりに輝き、水面に文明の光がゆらゆらと滲んでいる。あちら側とこちら側。時間は平等に流れているずだが、渚の夜は時間が止まっているかのように悠々とした時を刻んでいる。宴もたけなわ。ふと、時間が気になり時計を見る。いつもだと夜の10時や11時くらいの感覚だが、時計の針は午後8時。渚で過ごす夜はどうやらいつもとは違う時間が流れているようだ。
不便な生活の中に宿るもう一つの時間。それは、本当の豊かさと何か、ということをシンプルに語りかけてくる悠久なる時の流れなのかもしれない。体が温まり眠くなったらシュラフにくるまりご来光を待つとしよう。そして明日は、なにもなかったように形跡を残さずここを去り、新たな旅に出るのだ。