瀬戸内海 の特徴 《まとめ》

瀬戸内海

瀬戸内海は温暖小雨の「瀬戸内海式季候」で知られる日本最大の内海にして、大小700以上の島々が連なる日本随一の「多島海」である。見た目の穏やかさや温暖な気候風土から「地中海」に例えられることもあるが、海そのものは全くと言っていいほど類似性がない。「閉鎖性海域」という点は共通しているが、干満がほとんどない地中海に対し、瀬戸内海は干満の差が大きく、なおかつ潮が高速に流れる世界有数の「潮流海域」である。ここが地中海と大きく異なる瀬戸内海の特徴であり、この激しい潮の流れこそが、独自の海洋文化を育み、豊かな生態系を生み出して来た源である。総じて、変化に富んだ多様性のある海。それが瀬戸内海である。

鳴門
「渦潮」で有名な鳴門海峡
日本随一の多島海

島の総数727島。そのうち有人島は約150島で、その他は無人島。島に含まれない岩礁も含めると総数2000以上。瀬戸内海は島だらけな日本最大の多島海。

多島海
瀬戸内海には個性的な島々が2~5km圏内に連なる。最も大きい島は淡路島となるが、離島としては小豆島が最大となる。人口は淡路島が約13万人で小豆島が約2.5万人。小さい島では人口5人や10人という島も少なくない。
穏やかな内海

瀬戸内海は日本最大の内海にして、自然災害が非常に少ないおだやかな海域である。
穏やかな理由は、

①閉鎖性海域のため、外洋からのうねりの影響を受けない。
②海域の幅が狭い(平均30km)ため、うねりが発生しても大きくならない。
③障害物となる島や岩礁が多く、更に波を吸収する遠浅の海岸が多い。
④水深が浅い。平均水深38メートル。最大で105メートル。
⑤大河のように流れる「潮流」が、波やうねりのエネルギーを吸収してしまう。

以上、瀬戸内海は陸と潮流にプロテクトされた希有なる海である。

凪
風が止まった「凪」の海。高気圧が入った日の朝夕や、気温が上がらない春秋に多く見られる現象で、海と陸の気温差がゼロ(気圧の均衡がとれた時)の時の状態。
世界有数の潮流海域

瀬戸内海は見た目は波もなく非常に穏やかな海であるが、その実 「」 が高速に流れる世界有数の「潮流海域」でもある。「潮流」 は月と太陽の引力によって生じる海面の昇降現象(潮汐=干満)がもたらす潮(水)の流れである。

干満は一日2回、約6時間周期で「上げ・下げ」を繰り返すが、干満差は大きいところで4メートル、平均で2メートルほどの差が生じる。また、干満の上下がピークに達する前後1時間ほどは「潮止まり」となり潮の動きが止まるが、ピークを過ぎると「転流」して反対方向に流れ始め、その後は加速度的に流れが速くなる。沖合は平均速度3~4ノットで流れているが、「瀬戸」(島と島の間の狭い海峡のこと)では、時間帯により10ノット(時速18キロ)を超える激流ポイントも存在する。「鳴門海峡」や「来島海峡」、伯方島南岸の「船折瀬戸」なが代表例であるが、潮が流れ始めると、もはや海と言うよりは川である。

つまり、「瀬戸際だらけの海」だから瀬戸内海である。この見た目の穏やかさと激しい潮の流れのギャップを匠に利用して繁栄したのが、「村上水軍」を代表とするかつての海賊衆たちであった。瀬戸内海には海の歴史もたっぷり!

瀬戸内海の潮流図
閉鎖性海域である瀬戸内海には西の「豊後水道」と、東の「紀伊水道」の二ヶ所から潮が流れ込む。干潮から満潮へ向かう「上げ潮」の時間帯は東西から中央に向かって潮が流れ込み、満潮から干潮へと向かう「下げ潮」の時間帯は中央から東西へと潮が流れ出る。したがって、中央部付近は干満の差が大きくなり、潮の流れも速くなる。
瀬戸の潮流。動画は直島諸島。上げ潮時のため潮流速度は4ノットほどであるが、下げに入ると更に激しくなる。
潮待ち・風待ち

潮流」が激しい瀬戸内海には、かつて 「潮待ち・風待ち」 と呼ばれる航海文化があり、それにより街が形成された独自の歴史がある。潮流は時間帯で流れる方向が変わるため、帆船の時代は、潮の流れに沿って航海し、潮の向きが逆になったらどこかの港に入港し、再び潮が流れるまで待つ必要があった。そうして登場したのが「潮待ち港」と呼ばれる寄港地である。

中でも江戸時代に登場した「北前船」により「沖乗り航路」(沖合の島々を結ぶ本船航路)が開拓された以降は、その航路が物流の要となり、沖合の島々や半島の先端部が寄港地として賑わった。現代では「陸の孤島」と呼ばれるようなへんぴな場所であるが、江戸時代には全国の情報が集まる最先端の情報集積地(バレー)であった。代表的な寄港地としては、「鞆の浦」(広島県福山市)や大崎下島の 「御手洗」(広島県呉市)などがある。

瀬戸内海潮流図
広島県呉市の大崎下島にある「御手洗」地区。江戸時代から明治にかけての「北前船」で賑わった寄港地である。金持ちの船乗りが集まるということで、全国から多くの女子たちが集まっていた。そう、ここは遊郭が建ち並ぶ「花街」であった。明治時代の海図には寄港地の至る所に「桃のマーク」または文字で「桃林」と記されている。歴史を知ると、どことなく淫靡な香りが漂ってくる。
鞆の浦
こちらは『崖の上のポニョ』の舞台イメージとなった「鞆の浦」。宮崎監督が長期滞在して原画を書いた場所として話題になった。瀬戸内海における海上交通の要衝として栄えた街で、船乗りたちからのリクエストが多かった「酒」の醸造所が建ち並ぶ。どこか不思議な空間に迷い込んだような異国情緒溢れる雰囲気だ。

北前船と寄港地

ちなみに「北前船」とは江戸時代から明治にかけて活躍した、主に食糧物資を運ぶ木造の大型商船(帆船)で、大阪から瀬戸内を経て下関を廻り、九州、山陰、北陸、そして蝦夷地(北海道)を結ぶ物流の要であった。航路を開拓したのは北陸百万石の加賀藩である。大量の米を大阪へと運ぶ水路として、それまでは琵琶湖から淀川水系を抜ける内陸航路を使っていたが、ロスが大きく関所が至るところに出来たため、それに代わる航路として瀬戸内を経由する「西回り航路」を開発した。海は大量の物資を運べるため、以降は物流の本流となった。瀬戸内や関西では北陸を「北前」と呼んでいたので北前船である。

北前船は春に大阪を出航。米を中心に塩、砂糖、酒、酢、綿、薬、反物など、あらゆる生活物資を積み込んで瀬戸内を西へと進み、下関を折り返して日本海側を北上し約3ヶ月をかけて夏頃に北海道に到着。そして北海道を折り返し、同じ航路を逆戻りして秋ころに大阪に到着する半年がかりの航海であった。

途中、積み荷を各地に卸しては、空いた隙間にその土地の特産品を積み込み、余所の土地に卸す。といった商売を繰り返しながらの航海であったが、一航海あたりの額を今に換算すると1億円から2億円の収益を上げていたというから、寄港地に女子たちが集まるのもうなずける。しかも、全国津々浦々を巡る船乗りたちは陸の男たちが知らない多くの情報を持っていた。インターネットの無い時代は海が情報ハイウェイであった。今風に言えば、彼らはマーケティングを駆使して 「有るものを無いところに届ける」 というトレーディングを行うトレーダーであり、寄港地は最先端の情報と金が集まる情報の集積地、つまりオーシャンバレーでもあったわけだ。

朝凪・夕凪

外洋からのうねりの影響を受けない瀬戸内は、風が止まると湖よりも静かな「」となる。中でも「海陸風」が入れ替わる朝と夕方の時間帯で気圧にの中心に入った時は、完全なる「凪」となり、海上は音のない世界となる。

夕凪

風が止まると書いて「凪」と書く。海に空が映り込むので「鏡」とも言う。

平均水深38メートル

瀬戸内海はかつて陸地だったところが海面上昇(縄文海進)により海になった場所。そのため、水深が非常に浅く、最も深い部分でも105メートル。平均は38メートルほどでしかない。底引き網漁がはじまった頃は、ナウマン象の骨があちこちで引っかかったというから、陸地だったことは間違いない。

また、遠浅の干潟が至るところに点在していたため、昔はこの干潟を利用して各地に「塩田」が開かれていた。とりわけ空気が乾燥している小豆島は良質な塩がとれたため、江戸時代には徳川幕府の天領となり、全国2位(1位は忠臣蔵の赤穂)の一大産地となった。島は栄え、巨万の富を得た。しかし、塩を製造するために必要となる材木を山々から切り続けた結果、禿げ山ばかりとなり、洪水と干ばつが群発するようになった。加えて、周辺の島々でも製塩業が広がったことから、過剰生産となりバブルが弾け、江戸幕府は終焉した。現在の小豆島は「醤油造り」が主要産業の一つであるが、これは塩の二次利用としてはじまったものである。

干潟
かつては遠浅の干潟が多く存在していた瀬戸内海。しかし、埋め立てや護岸が進んだ今となっては、自然の浜は、もはや2割ほどしか残っていない。10年ほど前まではアサリがゴロゴロととれたが、今は掘っても掘っても、スズメの涙ほど・・・。
干満の差が激しい

瀬戸内は平均して2~3メートルの干満の差がある。東西から潮が合流する中央部(広島あたり)では更に4メートルを超えるところもある。そこで、干満の差に合わせていつでも船に乗れるよう階段状の 「雁木」(船着場)がつくられた。また、瀬戸内は水深が浅いため、干潮時に潮が引くと歩いて渡れる 「陸橋」 が出現するポイントもあり、観光ポイントにもなっている。

鞆の浦の雁木
鞆の浦の雁木:干満の差に応じて船が発着しやすいよう、階段状にななっている。
エンジェルロード満潮
小豆島のエンジェルロード。潮汐により道が出現する。上が満潮時、下が干潮時。瀬戸内にはこうした場所がいたるところに点在している
エンジェルロード干潮
磯の匂いがしない & 海に入ってもベタベタしない

瀬戸内海は海特有の 「磯の匂い」 がほとんどしない。これは、約2000系の河川から大量の「淡水」が流れ込んでいるからで、海水と淡水が混じり合う「汽水域」のような海だからである。そのため、海に入ってもベタベタしない。海はベタベタするのが嫌だと言う人も多いが、瀬戸内は非常にサラサラとした心地良い潮である。

小豆島
瀬戸内海は塩分濃度が若干低いが、なめてみるとしょっぱい。あたりまえか・・・。
うまい魚と柑橘系の宝庫

うまい魚を求めて島を訪れる人は多いが、島の魚屋曰く、瀬戸内海は魚がうまくなる条件が揃っているらしい。魚の旨さは「何を食べてるか」や「締め方」などにもよるが、「潮の質」にも関係があるらしい。業界では太平洋は「荒潮」と呼ばれ、全体的に身がぽっちゃりした魚が多く、水温が高くなるほどこの傾向は強くなるという。対して瀬戸内の魚は全体的に身が固く筋肉質な魚が多い。中でも代表的な「鯛」は甘みが非常に強い。エビを好んで食べるからだ。加えて、鯛は水深が深ぐ潮の流れが速い場所で暮らしているため、必然的に筋肉質な魚になるのである。

瀬戸内海の蝦
瀬戸内はエビの宝庫でもある

また、「豊穣の海」と呼ばれる海域には共通してあるものの存在が影響している。それは「川」である。三陸は世界の三大漁場に数えられるが、最近の調査ではアムール川の栄養分がオホーツクを経由して流れ込んでいることが明らかになった。そうして考えると三大漁場の一つであるカナダのニューファンドランド島周辺にはセントローレンス川が。世界中の海獣たちがエサを求めて集うベーリング海はには大陸を横断して流れ込むユーコン川が。北極海にはマッケンジーが流れ込んでいる。川が鉄分を含んだミネラルを海へと運び、そのミネラルにより植物が育ち、それにより魚が増えるという循環である。

約2000系の河川が流れ込む瀬戸内海は、かつては世界一の水揚げ量を誇る豊穣の海であった。しかしながら、現在の漁獲量は半世紀前と比べて7割減という状況だ。沿岸部の7割が護岸工事により消滅してしまったことや、ダムによって水がせき止められたことで、魚たちが暮らす「藻場」が消え去ってしまったことが主な原因だ。

大崎下島
みかん&レモン栽培が盛んな大崎下島。乾いた空気と潮風がおいしい柑橘を育てる。
瀬戸内海にはみかんと段々畑がよく似合う。
海がエメラルドグリーン

瀬戸内は夏と冬とでは海の色が違う。水温が低い冬場は透明度が高くなるため、光の屈折により青みが強くなるが、水温が上がるとプランクトンが増殖するため水の透明度が下がり、エメラルドグリーンに変身する。直物ブランクトンが緑色だからだ。そのためダイビングには向かないが、小魚たちには天国のような海である。

夏の瀬戸内海
夏の海。透明度が下がりエメラルドグリーン。
冬の瀬戸内海
水温が低い冬から春にかけては透明度が高く、光が海底まで届くため植物たちが育つ。
空気が超ドライ!

瀬戸内は温暖小雨の 「瀬戸内海式気候」。北は中国山地、南は四国山地に挟まれているため、季節風がそれぞれの山でブロックされて、乾いた風が瀬戸内側へと抜けてくる。そのため降水量が極めて少なく、年間1000ミリ程度と全国平均の半分程度しか雨が降らない。よって、晴天の日が多く日照時間が長い。

更に海と陸との間には温度差が生じやすいため、局地的な 「海陸風」 が吹く。この風により更に空気が乾燥する。中でも瀬戸内の東側の備讃瀬戸(岡山と香川)は最も空気が乾燥した干ばつ地帯であるため、植物たちは乾燥に強い植生へと傾く。乾燥して枯れないように自分で油を蓄えるのだ。小豆島ではオリーブが良く育つ。

小豆島のドライな風のメカニズム オリーブ

空気が乾燥した小豆島はオリーブの産地。
日本で最初の国立公園
鞆の浦
福山市の鞆の浦の「福禅寺・対潮楼」

瀬戸内海は日本第一号の「国立公園」に指定された景勝地である。豊かな生態系や環境保全を目的にした 「国立公園法」 の整備により環境省が定めたもので、昭和9年に、「瀬戸内海国立公園」、「雲仙国立公園」、「霧島国立公園」の三つが指定を受けた。

評価の背景には「シーボルト」や「朝鮮通信使」などによる外国人たちが瀬戸内を高く評価したことがあげられる。上の写真はおなじみ 「サザエさん」 のオープニングにも登場する鞆の浦の 「福禅寺・対潮楼」。「日東第一形勝」 とは 「朝鮮より東で一番美しい景勝」 という意味であるが、海を渡って来た人たちにとって、心安らぐ多島海の風景には特別な 「ニッポン」 があったようだ。

なお、瀬戸内海という名称は明治時代に入って付けられた名称で、シーボルトたちが航海した時代には海域全体の名称がなかったため、”THE ISLAND SEA” と命名し、後年日本名として 「瀬戸内海」 という名称が与えられた。

Text: Kenji Renkawa